2008/9/13リニューアルしました^^
2008.07.21 Mon
真田信繁(誕生〜九度山蟄居)
永禄10年(1567)、武田晴信(信玄)の家臣であった真田弾正忠幸隆の三男昌幸の子として誕生する(生年は没年の49歳から逆算されたもので、月日は不明)。江戸時代以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて大敵徳川に挑む天才軍師、真田幸村として取り上げられ、有名となった。
天正3年(1575)、信繁が9歳の時、真田氏の主家で甲斐国(山梨県)と信濃国を治める武田勝頼が、長篠の戦いで織田・徳川連合軍の前に敗北する。この際、父・昌幸の二人の兄も討死したため真田家は信繁の父・昌幸が継ぐこととなる。
天正10年(1582)3月11日、織田・徳川・北条連合軍の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順した。3月19日、武田遺領の分割が行われ、真田氏は所領を安堵された。
天正10年6月2日、天下人織田信長が京・本能寺で重臣・明智光秀の謀反により非業の死を遂げると、織田政権の関東管領であった滝川一益は、関東の北条軍と交戦し敗退、地元の伊勢に引き上げてしまう。信長という後盾が無くなった真田氏は、所領を守るために上杉・北条・徳川など周辺の諸大名に傘下に入っては離れてを繰り返した。この際に当主の息子である信繁は、人質として諸大名の下を転々としている昌幸は最終的に事実上の信長後継者となった豊臣秀吉の傘下に入り、以後秀吉から恩を受ける。そして信繁は豊臣秀吉の家臣である大谷吉継の娘(竹林院)を正妻に迎えている。
慶長3年(1598)の秀吉死後、慶長5年(1600)に、五大老で最大の実力者、内大臣・徳川家康が同じく五大老の一人である会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)で、徳川方の東軍についた兄・信之と敵対する立場となった(これは昌幸の策であり関ヶ原の戦いによりどちらが負けても必ず真田家が残るという考えによるものだともいわれている)。
徳川方の東軍は軍団を二分し、東海道と中山道を進軍すると、昌幸と信繁は居城である上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠軍を上田城に引き付け、散々に徳川軍を打ち破った(第二次上田合戦)。そのため中山道を進んだ秀忠軍は進行が遅れ、結果として主戦場となった関ヶ原での決戦に間に合わなかった。
しかし、三成率いる西軍は9月15日に敗北を喫する。昌幸と信繁は、本来ならば敗軍の将として切腹を命じられるところだったが、信之の必死の取り成しで二人は紀伊国九度山に配流を命じられた(本来なら高野山配流であったが、信繁が竹林院を伴っていたため、女人禁制のかどで九度山に変わった)。
蟄居中の慶長16年(1611)に父・昌幸は死去。翌慶長17年(1612)に信繁は出家、伝心月叟(でんしんげっそう)と名乗った。
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永禄10年(1567)、武田晴信(信玄)の家臣であった真田弾正忠幸隆の三男昌幸の子として誕生する(生年は没年の49歳から逆算されたもので、月日は不明)。江戸時代以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて大敵徳川に挑む天才軍師、真田幸村として取り上げられ、有名となった。
天正3年(1575)、信繁が9歳の時、真田氏の主家で甲斐国(山梨県)と信濃国を治める武田勝頼が、長篠の戦いで織田・徳川連合軍の前に敗北する。この際、父・昌幸の二人の兄も討死したため真田家は信繁の父・昌幸が継ぐこととなる。
天正10年(1582)3月11日、織田・徳川・北条連合軍の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順した。3月19日、武田遺領の分割が行われ、真田氏は所領を安堵された。
天正10年6月2日、天下人織田信長が京・本能寺で重臣・明智光秀の謀反により非業の死を遂げると、織田政権の関東管領であった滝川一益は、関東の北条軍と交戦し敗退、地元の伊勢に引き上げてしまう。信長という後盾が無くなった真田氏は、所領を守るために上杉・北条・徳川など周辺の諸大名に傘下に入っては離れてを繰り返した。この際に当主の息子である信繁は、人質として諸大名の下を転々としている昌幸は最終的に事実上の信長後継者となった豊臣秀吉の傘下に入り、以後秀吉から恩を受ける。そして信繁は豊臣秀吉の家臣である大谷吉継の娘(竹林院)を正妻に迎えている。
慶長3年(1598)の秀吉死後、慶長5年(1600)に、五大老で最大の実力者、内大臣・徳川家康が同じく五大老の一人である会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)で、徳川方の東軍についた兄・信之と敵対する立場となった(これは昌幸の策であり関ヶ原の戦いによりどちらが負けても必ず真田家が残るという考えによるものだともいわれている)。
徳川方の東軍は軍団を二分し、東海道と中山道を進軍すると、昌幸と信繁は居城である上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠軍を上田城に引き付け、散々に徳川軍を打ち破った(第二次上田合戦)。そのため中山道を進んだ秀忠軍は進行が遅れ、結果として主戦場となった関ヶ原での決戦に間に合わなかった。
しかし、三成率いる西軍は9月15日に敗北を喫する。昌幸と信繁は、本来ならば敗軍の将として切腹を命じられるところだったが、信之の必死の取り成しで二人は紀伊国九度山に配流を命じられた(本来なら高野山配流であったが、信繁が竹林院を伴っていたため、女人禁制のかどで九度山に変わった)。
蟄居中の慶長16年(1611)に父・昌幸は死去。翌慶長17年(1612)に信繁は出家、伝心月叟(でんしんげっそう)と名乗った。
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真田十勇士 有名だけど
今の人たちは 知らないかも だね !? (><)
真田六文銭 上田に行くと のぼりが
アチコチに ですよ (^^)