2008/9/13リニューアルしました^^
2008.07.23 Wed
大谷吉継
永禄2年(1559)に近江国で生まれた。幼名は慶松。正確な年号は不明だが、天正年間初めに秀吉の小姓となり、寵愛を受けた。
天正10年(1582)6月、天下統一に大手をかけていた織田信長が京・本能寺を明智光秀に急襲され、非業の最期を遂げる。その直後、中国戦線より大返しを敢行した羽柴秀吉(豊臣秀吉)は京都山崎において光秀軍に完勝。主君の仇を討ち急速に台頭してくる。
天正11年(1583)に織田家筆頭家老の柴田勝家と秀吉との対立が表面化し、賤ヶ岳の戦いが勃発。このとき、吉継は長浜城主で勝家の養子である柴田勝豊を調略して内応させ、七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てた。
天正13年(1585)7月、従五位下、刑部少輔に叙位・叙任される(そのため通称、大谷刑部の名で知られる)。
天正14年(1586)の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられ、功績を上げ、天正17年(1589)に越前敦賀に5万石を与えられ、敦賀城主となった。
天正18年(1590)の小田原北条征伐にも従軍し、続いて東北地方の奥州仕置において出羽の検地を行った。
文禄元年(1592)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、功績を挙げている。同年六月には秀吉の命令で奉行として渡海し、明との和平交渉を務めた。
文禄3年(1594)、秀吉の隠居城となる伏見城築城に従事して功績を上げている。
慶長2年(1597)9月、秀吉を自邸に招いて饗応。秀吉より“国行の太刀”を与えられる。
慶長3年(1598)8月に主君・豊臣秀吉が薨去。吉継は最大の実力者にして五大老筆頭の内大臣・徳川家康に接近した。
慶長4年(1599)、家康と同じく五大老の大納言・前田利家の仲が険悪となり、徳川邸襲撃の風聞が立った際には加藤清正や福島正則ら豊臣家の武断派諸将らと共に徳川邸に参じて、家康を警護している。その後、利家嫡男・前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱や、宇喜多家中の紛争を調停した。
慶長5年(1600)、家康は五大老のひとり、会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い、上杉討伐軍を起こした。家康と懇意であった吉継は討伐軍に参加するために領国の敦賀を出立し、途中で失脚していた五奉行の石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために、三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前中納言(宇喜多秀家)を上に立て、お主は影に徹せよ」と再三説得するが、三成の固い決意を知り、敗戦を予期しながらも息子たちとともに西軍に与した。
こうして三成の下に参じ、西軍首脳の一人となった吉継は、敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため、越前・加賀における諸大名の調略を行なった。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功する。さらに吉継が偽情報を流したため利長は動揺し、前田軍は加賀に撤退する際、丹羽長重軍に襲われた(浅井畷の戦い)。
同年9月、吉継は三成の要請を受けて、脇坂安治や朽木元綱、戸田勝成、赤座直保らの諸将を率いて美濃に進出する。
そして9月15日、東西両軍による関ヶ原の戦いに至る。このとき、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田・平塚為広の諸隊、あわせて6600で布陣する。そして吉継は輿に乗って軍を指揮し、東軍の藤堂高虎隊、京極高知隊を相手に戦い、奮戦した。
松尾山に布陣していた小早川秀秋は家康と内応しており、三成からの出撃要請にも応じなかった。そして小早川隊1万5000が突如として大谷隊に突撃を開始してくる。吉継はこのとき小早川秀秋の裏切りを予見し、そのための陣備えをしていたという。戸田勝成や平塚為広らと600の精兵と共に猛然と小早川隊に逆襲を浴びせ、数に勝る小早川隊を3回も山へ追い返したという。
しかし、吉継が小早川秀秋の裏切りに備えた予備隊である脇坂安治らの部隊までが東軍に寝返り、大谷隊に側面攻撃をかけ、さすがの大谷隊も壊滅し、ついに吉継は自害して果てた。享年42。
自害した吉継の首は小姓の湯浅五助の手により関ヶ原の地中深くに埋められたため、東軍側に発見されることはなかった。
辞世の句は、
契りあらば 六の巷に まてしばし
おくれ先立つ 事はありとも
墓所・・・関ヶ原古戦場(岐阜県関ヶ原町)
↓応援よろしくね



永禄2年(1559)に近江国で生まれた。幼名は慶松。正確な年号は不明だが、天正年間初めに秀吉の小姓となり、寵愛を受けた。
天正10年(1582)6月、天下統一に大手をかけていた織田信長が京・本能寺を明智光秀に急襲され、非業の最期を遂げる。その直後、中国戦線より大返しを敢行した羽柴秀吉(豊臣秀吉)は京都山崎において光秀軍に完勝。主君の仇を討ち急速に台頭してくる。
天正11年(1583)に織田家筆頭家老の柴田勝家と秀吉との対立が表面化し、賤ヶ岳の戦いが勃発。このとき、吉継は長浜城主で勝家の養子である柴田勝豊を調略して内応させ、七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てた。
天正13年(1585)7月、従五位下、刑部少輔に叙位・叙任される(そのため通称、大谷刑部の名で知られる)。
天正14年(1586)の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられ、功績を上げ、天正17年(1589)に越前敦賀に5万石を与えられ、敦賀城主となった。
天正18年(1590)の小田原北条征伐にも従軍し、続いて東北地方の奥州仕置において出羽の検地を行った。
文禄元年(1592)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、功績を挙げている。同年六月には秀吉の命令で奉行として渡海し、明との和平交渉を務めた。
文禄3年(1594)、秀吉の隠居城となる伏見城築城に従事して功績を上げている。
慶長2年(1597)9月、秀吉を自邸に招いて饗応。秀吉より“国行の太刀”を与えられる。
慶長3年(1598)8月に主君・豊臣秀吉が薨去。吉継は最大の実力者にして五大老筆頭の内大臣・徳川家康に接近した。
慶長4年(1599)、家康と同じく五大老の大納言・前田利家の仲が険悪となり、徳川邸襲撃の風聞が立った際には加藤清正や福島正則ら豊臣家の武断派諸将らと共に徳川邸に参じて、家康を警護している。その後、利家嫡男・前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱や、宇喜多家中の紛争を調停した。
慶長5年(1600)、家康は五大老のひとり、会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い、上杉討伐軍を起こした。家康と懇意であった吉継は討伐軍に参加するために領国の敦賀を出立し、途中で失脚していた五奉行の石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために、三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前中納言(宇喜多秀家)を上に立て、お主は影に徹せよ」と再三説得するが、三成の固い決意を知り、敗戦を予期しながらも息子たちとともに西軍に与した。
こうして三成の下に参じ、西軍首脳の一人となった吉継は、敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため、越前・加賀における諸大名の調略を行なった。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功する。さらに吉継が偽情報を流したため利長は動揺し、前田軍は加賀に撤退する際、丹羽長重軍に襲われた(浅井畷の戦い)。
同年9月、吉継は三成の要請を受けて、脇坂安治や朽木元綱、戸田勝成、赤座直保らの諸将を率いて美濃に進出する。
そして9月15日、東西両軍による関ヶ原の戦いに至る。このとき、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田・平塚為広の諸隊、あわせて6600で布陣する。そして吉継は輿に乗って軍を指揮し、東軍の藤堂高虎隊、京極高知隊を相手に戦い、奮戦した。
松尾山に布陣していた小早川秀秋は家康と内応しており、三成からの出撃要請にも応じなかった。そして小早川隊1万5000が突如として大谷隊に突撃を開始してくる。吉継はこのとき小早川秀秋の裏切りを予見し、そのための陣備えをしていたという。戸田勝成や平塚為広らと600の精兵と共に猛然と小早川隊に逆襲を浴びせ、数に勝る小早川隊を3回も山へ追い返したという。
しかし、吉継が小早川秀秋の裏切りに備えた予備隊である脇坂安治らの部隊までが東軍に寝返り、大谷隊に側面攻撃をかけ、さすがの大谷隊も壊滅し、ついに吉継は自害して果てた。享年42。
自害した吉継の首は小姓の湯浅五助の手により関ヶ原の地中深くに埋められたため、東軍側に発見されることはなかった。
辞世の句は、
契りあらば 六の巷に まてしばし
おくれ先立つ 事はありとも
墓所・・・関ヶ原古戦場(岐阜県関ヶ原町)
↓応援よろしくね




No title by沙希
お姉ちゃん
今日も干からびそうに暑かったよ・・・
そうだよね^^
今、自動で給湯中〜♪
今日も干からびそうに暑かったよ・・・
そうだよね^^
今、自動で給湯中〜♪
吉継様〜 byちしまさくら
いい人ですよね!石田三成との友情がカッコヨスです
美少年だったのに、病気のせいで顔を隠すようになったんですよね・・・気の毒だけど、そこが更にドラマティックですよね。
美少年だったのに、病気のせいで顔を隠すようになったんですよね・・・気の毒だけど、そこが更にドラマティックですよね。
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今日も暑かったねぇ(>_<)
こんな時はお風呂でさっぱりするのが一番だよねぇwsw