2008/9/13リニューアルしました^^
2008.07.25 Fri
上杉景勝
弘治元年(1555)、越後国に上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれる。生母は上杉謙信の実姉、仙桃院。したがって謙信にとっては甥に当たる。
永禄7年(1564)、父の政景が死去すると、春日山城に入り謙信の養子となった。
永禄9年(1566)の関東出兵が初陣であるとされている。
天正3年(1575)、名を長尾顕景から上杉景勝に改めると共に、謙信から弾正少弼の位を譲られた(上杉景勝が弾正少弼を謙信から譲り受けた書状が景勝自身の筆跡と同じであり、景勝が謙信の後継者であることを正当化する為、偽造したとの説があるが、上杉景虎が蘆名盛氏にあてた書状には景勝を少弼と呼んでいるため、景勝の弾正少弼官途継承は事実であると思われる)。
天正6年(1578)、謙信が関東出兵直前に急死すると、景勝は謙信の遺言であると称して春日山城本城域をを占拠し、謙信の残した莫大な軍資金を掌握し、同じく謙信の養子であり謙信の初名を譲られていた上杉景虎(北条氏康の七男)に先手をとる。そして景虎は春日山城を脱出し、御館に立て籠もり景勝と対する。景勝は御用金を惜しみなく使い、甲斐の武田勝頼を味方につけ、さらに実家である北条氏の増援も遅れたこともあり、景虎は形勢が不利となり、関東へ脱出し再帰を計ろうとするが途中で追いつめられ、天正7年(1579年)に自害した(御館の乱)。
天正8年(1580)には越後の諸豪族も従えて、謙信の後継ぎとしての地位を確立した。
天正9年(1581)、北越後の新発田重家が織田信長と通じて反逆した上、柴田勝家率いる織田北陸方面軍に越中にまで侵攻されるなど、存続の危機に立たされた。
天正10年(1582年)に織田軍は越中を完全に制圧し、上杉家の運命は風前の灯と思われたが、6月2日に織田信長が家臣明智光秀の謀反により京・本能寺を急襲され、天下統一を目前にして非業の最期を遂げる。このとき同じく京にいた後継者嫡男・信忠も討死してしまったため織田家中は混乱し、勝家も軍を後退させたため、何とか滅亡を逃れることができた。しかし、織田軍の侵攻に加え、家督争いによる抗争や内紛が膠着化したことによって、国力は大きく衰退し、のちの上杉家の弱体化の元凶の1つを作り出した。
本能寺の変後、織田政権の関東管領滝川一益、森長可などは自らの領国に引き上げたため北信濃に侵攻し、一部をその支配下に置いた。また、天正13年(1585)には真田昌幸を一時的に従属下に置いている。
中央では羽柴秀吉(豊臣秀吉)が謀反人明智光秀を山崎の合戦において討ち、さらにライバルを次々と駆逐あるいは臣従させ、信長後継者の座に一気に躍り出てその地位を確固たるものとしていた。
天正14年(1586)6月、景勝は大坂城に登城し、関白太政大臣・豊臣秀吉に臣下の礼をとる。 その際に、越中と上野の領有を放棄、代わりに佐渡・出羽の切り取りを許可される。このとき、景勝は正親町天皇に拝謁して左近衛権少将に任じられた。
天正16年(1588)に再度上洛し、従三位・参議・権中納言に昇叙転任した。
天正15年(1587)、反逆していた新発田重家を征伐、さらに天正17年(1589)には佐渡の本間氏を討伐し、佐渡を平定した。
天正18年(1590)、小田原北条征伐にも、山浦景国を先鋒として出陣した。
さらに天正20年(1592)6月6日から9月8日まで、家臣の高梨頼親らを伴って秀吉の朝鮮出兵に参加し、渡海する。このとき最前線基地として熊川倭城を築城している。
慶長2年(1597)、小早川隆景が死去した後を受けて、豊臣五大老の一人に列せられた。
慶長3年(1598)、秀吉の命により会津120万石に加増移封された。旧領地から引き続き統治が認められたのは、佐渡一国及び越後の東蒲原と本庄繁長が最上義光と激しい争奪戦をして奪った出羽庄内地方のみで、後は旧伊達氏の領地だった出羽置賜地方、陸奥伊達郡、信夫郡、刈田郡と伊達政宗が征服した会津地方であった。また、各地は山地で隔絶され、現在でも交通の難所と呼ばれる峠道で結ばれているだけであった。常に北側に境を接する最上義光、伊達政宗と衝突の危険性が有り、改易された蒲生氏に代わり東北諸大名の監視と牽制のための配置であった。
景勝は要となる米沢城を直江兼続に30万石を与えて支配させ、対伊達氏最前線の白石城の甘糟景継、福島城の本庄繁長、東禅時城の志田義秀を指揮させた。
慶長3年(1598)8月、太閤秀吉が薨去すると、家老の直江兼続が五奉行の石田三成と懇意にあったことから徳川家康と対立する。
慶長5年(1600)2月になると、景勝は領内諸城の補修を命ずる。3月になると鶴ヶ城が将来手狭になると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指に新城の築城を開始する。
同年4月、家康から領内諸城改修の申し開きをするように上洛命令(家康はこの上洛命令を景勝は無視すると踏んで最初から排除するための策だと言われる)が出るがこれを拒否する(これが有名な直江状)。
家康は自ら諸将を率いて景勝討伐に出陣する(会津征伐)。このため6月、景勝は新城の普請を中断して家康軍の対応にあたる。
同年7月、討伐に向かった家康の留守中に上方で三成らが挙兵し、関ヶ原の戦いが勃発する。家康が三成挙兵をうけて軍を西上反転させると景勝は会津から出陣。東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦ったが、9月15日の関ヶ原本戦で三成ら西軍が敗れたため、軍を引いた。
慶長6年(1601)、直江兼続と共に上洛して家康に謝罪し、上杉氏の存続は許されたが、所領のうち置賜、信夫、伊達の3郡のみ安堵されたがその大半を召し上げられ、出羽米沢30万石に減俸移封され、辺境の一大名家へと転落した。
景勝は直江兼続と協力して、米沢における城下町建設や法整備などの支配体制確立に尽力し、米沢藩の藩政確立に務めた。しかし所領を大幅に減らされたにも関わらず、抱える家臣をほとんど減らさなかったため、後世に渡って何度も財政難の危機に陥った。
慶長19年(1614)からの大坂の陣では幕府軍の先鋒として活躍した。
元和9年(1623)3月20日、米沢で死去。享年69。
戒名・・・覚上院殿法印権大僧都宗心
墓所・・・上杉家御廟所(山形県米沢市)、高野山清浄心院(和歌山県高野町)
上杉神社摂社である松岬神社に、祭神として祀られている。
↓応援よろしくね



弘治元年(1555)、越後国に上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれる。生母は上杉謙信の実姉、仙桃院。したがって謙信にとっては甥に当たる。
永禄7年(1564)、父の政景が死去すると、春日山城に入り謙信の養子となった。
永禄9年(1566)の関東出兵が初陣であるとされている。
天正3年(1575)、名を長尾顕景から上杉景勝に改めると共に、謙信から弾正少弼の位を譲られた(上杉景勝が弾正少弼を謙信から譲り受けた書状が景勝自身の筆跡と同じであり、景勝が謙信の後継者であることを正当化する為、偽造したとの説があるが、上杉景虎が蘆名盛氏にあてた書状には景勝を少弼と呼んでいるため、景勝の弾正少弼官途継承は事実であると思われる)。
天正6年(1578)、謙信が関東出兵直前に急死すると、景勝は謙信の遺言であると称して春日山城本城域をを占拠し、謙信の残した莫大な軍資金を掌握し、同じく謙信の養子であり謙信の初名を譲られていた上杉景虎(北条氏康の七男)に先手をとる。そして景虎は春日山城を脱出し、御館に立て籠もり景勝と対する。景勝は御用金を惜しみなく使い、甲斐の武田勝頼を味方につけ、さらに実家である北条氏の増援も遅れたこともあり、景虎は形勢が不利となり、関東へ脱出し再帰を計ろうとするが途中で追いつめられ、天正7年(1579年)に自害した(御館の乱)。
天正8年(1580)には越後の諸豪族も従えて、謙信の後継ぎとしての地位を確立した。
天正9年(1581)、北越後の新発田重家が織田信長と通じて反逆した上、柴田勝家率いる織田北陸方面軍に越中にまで侵攻されるなど、存続の危機に立たされた。
天正10年(1582年)に織田軍は越中を完全に制圧し、上杉家の運命は風前の灯と思われたが、6月2日に織田信長が家臣明智光秀の謀反により京・本能寺を急襲され、天下統一を目前にして非業の最期を遂げる。このとき同じく京にいた後継者嫡男・信忠も討死してしまったため織田家中は混乱し、勝家も軍を後退させたため、何とか滅亡を逃れることができた。しかし、織田軍の侵攻に加え、家督争いによる抗争や内紛が膠着化したことによって、国力は大きく衰退し、のちの上杉家の弱体化の元凶の1つを作り出した。
本能寺の変後、織田政権の関東管領滝川一益、森長可などは自らの領国に引き上げたため北信濃に侵攻し、一部をその支配下に置いた。また、天正13年(1585)には真田昌幸を一時的に従属下に置いている。
中央では羽柴秀吉(豊臣秀吉)が謀反人明智光秀を山崎の合戦において討ち、さらにライバルを次々と駆逐あるいは臣従させ、信長後継者の座に一気に躍り出てその地位を確固たるものとしていた。
天正14年(1586)6月、景勝は大坂城に登城し、関白太政大臣・豊臣秀吉に臣下の礼をとる。 その際に、越中と上野の領有を放棄、代わりに佐渡・出羽の切り取りを許可される。このとき、景勝は正親町天皇に拝謁して左近衛権少将に任じられた。
天正16年(1588)に再度上洛し、従三位・参議・権中納言に昇叙転任した。
天正15年(1587)、反逆していた新発田重家を征伐、さらに天正17年(1589)には佐渡の本間氏を討伐し、佐渡を平定した。
天正18年(1590)、小田原北条征伐にも、山浦景国を先鋒として出陣した。
さらに天正20年(1592)6月6日から9月8日まで、家臣の高梨頼親らを伴って秀吉の朝鮮出兵に参加し、渡海する。このとき最前線基地として熊川倭城を築城している。
慶長2年(1597)、小早川隆景が死去した後を受けて、豊臣五大老の一人に列せられた。
慶長3年(1598)、秀吉の命により会津120万石に加増移封された。旧領地から引き続き統治が認められたのは、佐渡一国及び越後の東蒲原と本庄繁長が最上義光と激しい争奪戦をして奪った出羽庄内地方のみで、後は旧伊達氏の領地だった出羽置賜地方、陸奥伊達郡、信夫郡、刈田郡と伊達政宗が征服した会津地方であった。また、各地は山地で隔絶され、現在でも交通の難所と呼ばれる峠道で結ばれているだけであった。常に北側に境を接する最上義光、伊達政宗と衝突の危険性が有り、改易された蒲生氏に代わり東北諸大名の監視と牽制のための配置であった。
景勝は要となる米沢城を直江兼続に30万石を与えて支配させ、対伊達氏最前線の白石城の甘糟景継、福島城の本庄繁長、東禅時城の志田義秀を指揮させた。
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景勝は直江兼続と協力して、米沢における城下町建設や法整備などの支配体制確立に尽力し、米沢藩の藩政確立に務めた。しかし所領を大幅に減らされたにも関わらず、抱える家臣をほとんど減らさなかったため、後世に渡って何度も財政難の危機に陥った。
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No title byネオ銀将
上杉景勝といえば、直江兼続ですね。童門冬次の直江兼続は大変優秀だったように記憶します。「愛」のかぶとが好きです
No title byまこ
さすが、沙希たん!!
まこの好みの武将をばっちり抑えていらっしゃる!
時代は下るけど、まこは、出羽国米沢藩の第9代藩主,上杉鷹山(ようざん)も大好きです。
まこの好みの武将をばっちり抑えていらっしゃる!
時代は下るけど、まこは、出羽国米沢藩の第9代藩主,上杉鷹山(ようざん)も大好きです。
大河ドラマの直江兼続と・・・ byがっちゃん
ありがとうっ。
よく関係が分かります。
来年の大河ドラマも楽しみになってきました。
自分が子供の頃の大河ドラマは「風と雲と虹と」で平氏の話だったけど母と見入ってみていました。さっしくまとめられてさすがっ,沙希さんっ。
愛知県暑い暑いと報道されていますね。気を付けてっ。
よく関係が分かります。
来年の大河ドラマも楽しみになってきました。
自分が子供の頃の大河ドラマは「風と雲と虹と」で平氏の話だったけど母と見入ってみていました。さっしくまとめられてさすがっ,沙希さんっ。
愛知県暑い暑いと報道されていますね。気を付けてっ。
No title byちしまさくら
実は今まで良く知らなかったのですが
こう言う人だったんですね!何か、結構劇的な生涯の人だと思いました。
直江兼続との関係も、なんとなく分かりました。沙希さんの武将シリーズは分かりやすくて勉強になります!
こう言う人だったんですね!何か、結構劇的な生涯の人だと思いました。
直江兼続との関係も、なんとなく分かりました。沙希さんの武将シリーズは分かりやすくて勉強になります!
No title by沙希
ネオ銀将さん
まさに上杉景勝といえば、直江兼続ですね。童門冬次の直江兼続は沙希も読みました!!おもしろかったです。「愛」の前立ての兜すごいですよね!!
まこたん
上杉鷹山とは・・・まこたんはすごく微妙なところを突いてくるね^^大きな道よりそこから別れて伸びる道に魅力を感じる沙希と似てるね♪
がっちゃん
大河ドラマでどう扱われるか?とても興味深いです。謙信が偉大過ぎて景勝は隠れ気味ですけど、なかなか興味深い人物でしょ。
さくらちゃん
いつも見てくれてありがとね♪
できるだけ私見を挟まないようにまた最新の情報をもとに書いてるつもりだけど、これからもよろしくね♪
まさに上杉景勝といえば、直江兼続ですね。童門冬次の直江兼続は沙希も読みました!!おもしろかったです。「愛」の前立ての兜すごいですよね!!
まこたん
上杉鷹山とは・・・まこたんはすごく微妙なところを突いてくるね^^大きな道よりそこから別れて伸びる道に魅力を感じる沙希と似てるね♪
がっちゃん
大河ドラマでどう扱われるか?とても興味深いです。謙信が偉大過ぎて景勝は隠れ気味ですけど、なかなか興味深い人物でしょ。
さくらちゃん
いつも見てくれてありがとね♪
できるだけ私見を挟まないようにまた最新の情報をもとに書いてるつもりだけど、これからもよろしくね♪
No title
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No title
さすが、沙希たん!!
まこの好みの武将をばっちり抑えていらっしゃる!
時代は下るけど、まこは、出羽国米沢藩の第9代藩主,上杉鷹山(ようざん)も大好きです。
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大河ドラマの直江兼続と・・・
ありがとうっ。
よく関係が分かります。
来年の大河ドラマも楽しみになってきました。
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No title
実は今まで良く知らなかったのですが
こう言う人だったんですね!何か、結構劇的な生涯の人だと思いました。
直江兼続との関係も、なんとなく分かりました。沙希さんの武将シリーズは分かりやすくて勉強になります!
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No title
ネオ銀将さん
まさに上杉景勝といえば、直江兼続ですね。童門冬次の直江兼続は沙希も読みました!!おもしろかったです。「愛」の前立ての兜すごいですよね!!
まこたん
上杉鷹山とは・・・まこたんはすごく微妙なところを突いてくるね^^大きな道よりそこから別れて伸びる道に魅力を感じる沙希と似てるね♪
がっちゃん
大河ドラマでどう扱われるか?とても興味深いです。謙信が偉大過ぎて景勝は隠れ気味ですけど、なかなか興味深い人物でしょ。
さくらちゃん
いつも見てくれてありがとね♪
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