2008/9/13リニューアルしました^^
2008.07.28 Mon
浅井長政 〜湖北の猛虎〜
(誕生〜信長との同盟)
天文14年(1545)、北近江小谷城主・浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江観音寺城下(現・滋賀県安土町)で生まれる。幼名は猿夜叉丸。通称、新九郎。
当時、浅井氏は六角氏との合戦に敗れ、初代当主・浅井亮政の築いた領地を失い、六角氏に臣従していた。そのため、猿夜叉丸自身も生母・小野殿と共に六角氏との停戦のための人質になっていたとされる。久政は、六角氏との外交に力をいれ、かろうじて北近江を維持していた。家臣の中には久政の弱腰な政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていた。
15歳で元服した時、六角氏は六角・浅井の関係が臣従関係にあることをはっきりさせるため、新九郎に対し六角氏当主・六角義賢の一字をとって「賢政」と名乗らせる。また、六角氏の家臣・平井定武の娘との婚姻も強いた。
このような状況に不満を持つ家臣達は、知勇に優れた賢政に期待をよせ、久政を竹生島に追放して隠居を強要した。こうして家督を強奪に近い形で相続したのであった。そして六角氏から離反を明らかにするため「賢政の名」と、「平井定武の娘」を六角氏に返上し、名を新九郎に戻した。
永禄3年(1560)、新九郎は15歳の若さで軍を率い、六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦ぶりを披露した。これによって重臣赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経らを心酔させたと言われている。
このとき朝倉氏に援軍を求めた様子がないことから、朝倉親交派である久政や家臣達ではなく、長政自身が戦の主導権を握っていたと思われる。そして合戦後は朝倉氏との関わりが薄い独立した統治を行っている。
永禄6年(1563)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された(観音寺騒動)。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の衰退が決定的になった時期である。
同年、新九郎の美濃遠征中に、その留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、新九郎は軍を急反転させて六角軍を撃破した。殿軍を任された赤尾清綱はわずか500の兵で見事な働きを見せた。
永禄10年(1567)8月、斎藤氏を駆逐し美濃を手に入れた織田信長は不破河内守を使者として送り、長政と同盟を持ちかけた。同盟の条件は浅井側に有利であったが、浅井家臣団の中では賛否両論あった。最大の問題は、織田氏と盟友朝倉氏の歴史的な不仲だった。家臣は朝倉親交派と独立派で分断されたが、最後は長政の決断によって同盟を結ぶことに決した。
永禄10年暮れから11年早々(正確な年号は不明)、同盟の証として信長妹・市が嫁いでくる。信長は大いに喜び、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている(このとき信長の一字を拝領し長政と改名したという説があるが明確にはなっていない)。
長政が妹婿になってくれるならば、六角氏を倒して近江一国の主とし、天下を二人で治めようと言ったという。また浅井氏三代にわたって親密な関係にある越前朝倉氏にも手出しをしないと誓約した(『浅井三代記』)。この同盟によって信長は上洛進路を確保する。そして長政は織田という大勢力との繋がりができ、他の大名に大きな牽制になった。
永禄11年(1568)7月、越前朝倉氏に身を寄せていた足利義昭は一向に上洛の意志をみせない朝倉義景に見切りをつけ、織田信長に身をよせた。
同年9月、大義名分を得た信長は、4万とも6万ともいわれる大軍を率いて上洛を開始し、長政も信長に合流し上洛を援護した。唯一、反抗していた南近江の六角氏の支城箕作城を落城させると六角承禎・義弼父子は居城である観音寺城を捨て比叡山に逃走した。以後、これといった抵抗をうけることなく上洛を果たした。
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(誕生〜信長との同盟)
天文14年(1545)、北近江小谷城主・浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江観音寺城下(現・滋賀県安土町)で生まれる。幼名は猿夜叉丸。通称、新九郎。
当時、浅井氏は六角氏との合戦に敗れ、初代当主・浅井亮政の築いた領地を失い、六角氏に臣従していた。そのため、猿夜叉丸自身も生母・小野殿と共に六角氏との停戦のための人質になっていたとされる。久政は、六角氏との外交に力をいれ、かろうじて北近江を維持していた。家臣の中には久政の弱腰な政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていた。
15歳で元服した時、六角氏は六角・浅井の関係が臣従関係にあることをはっきりさせるため、新九郎に対し六角氏当主・六角義賢の一字をとって「賢政」と名乗らせる。また、六角氏の家臣・平井定武の娘との婚姻も強いた。
このような状況に不満を持つ家臣達は、知勇に優れた賢政に期待をよせ、久政を竹生島に追放して隠居を強要した。こうして家督を強奪に近い形で相続したのであった。そして六角氏から離反を明らかにするため「賢政の名」と、「平井定武の娘」を六角氏に返上し、名を新九郎に戻した。
永禄3年(1560)、新九郎は15歳の若さで軍を率い、六角軍を相手に野良田の戦いで見事な戦ぶりを披露した。これによって重臣赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経らを心酔させたと言われている。
このとき朝倉氏に援軍を求めた様子がないことから、朝倉親交派である久政や家臣達ではなく、長政自身が戦の主導権を握っていたと思われる。そして合戦後は朝倉氏との関わりが薄い独立した統治を行っている。
永禄6年(1563)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された(観音寺騒動)。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の衰退が決定的になった時期である。
同年、新九郎の美濃遠征中に、その留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、新九郎は軍を急反転させて六角軍を撃破した。殿軍を任された赤尾清綱はわずか500の兵で見事な働きを見せた。
永禄10年(1567)8月、斎藤氏を駆逐し美濃を手に入れた織田信長は不破河内守を使者として送り、長政と同盟を持ちかけた。同盟の条件は浅井側に有利であったが、浅井家臣団の中では賛否両論あった。最大の問題は、織田氏と盟友朝倉氏の歴史的な不仲だった。家臣は朝倉親交派と独立派で分断されたが、最後は長政の決断によって同盟を結ぶことに決した。
永禄10年暮れから11年早々(正確な年号は不明)、同盟の証として信長妹・市が嫁いでくる。信長は大いに喜び、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている(このとき信長の一字を拝領し長政と改名したという説があるが明確にはなっていない)。
長政が妹婿になってくれるならば、六角氏を倒して近江一国の主とし、天下を二人で治めようと言ったという。また浅井氏三代にわたって親密な関係にある越前朝倉氏にも手出しをしないと誓約した(『浅井三代記』)。この同盟によって信長は上洛進路を確保する。そして長政は織田という大勢力との繋がりができ、他の大名に大きな牽制になった。
永禄11年(1568)7月、越前朝倉氏に身を寄せていた足利義昭は一向に上洛の意志をみせない朝倉義景に見切りをつけ、織田信長に身をよせた。
同年9月、大義名分を得た信長は、4万とも6万ともいわれる大軍を率いて上洛を開始し、長政も信長に合流し上洛を援護した。唯一、反抗していた南近江の六角氏の支城箕作城を落城させると六角承禎・義弼父子は居城である観音寺城を捨て比叡山に逃走した。以後、これといった抵抗をうけることなく上洛を果たした。
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