2008/9/13リニューアルしました^^
2008.08.03 Sun
福島正則 〜賤ヶ岳七本槍の筆頭と称された男の生涯〜
(安芸広島の太守〜最期)
慶長6年(1601)3月に芸備に入封した正則は早速、領内を巡検するとともに、検地で石高の再算出を行った。家臣への知行割も事実上の給米制とし、検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収して負担を少なくするといった善政を布き、意外にも地方巧者ぶりを発揮している。ただし築城や軍拡などのために領民の負担自体は高くなったのも事実であった。また領内の寺社の保護にも熱心であり、慶長7年(1602)には厳島神社の平家納経を修復させたことが知られている。この治世で、除封直前の石高は51万5800石に達した。
慶長9年(1604)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣家を主筋に立てることも忘れなかった。
慶長16年(1611)3月に家康が秀頼に対し、二条城での会見を迫った時には、いまなお豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得し、秀頼の上洛を実現させた(正則自身は病と称して会見に同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えた)。
この会見直後に清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も慶長17年(1612)に病を理由に隠居を願い出る。しかしそれも許されずに飼い殺しの状態に置かれた正則は、大坂の陣では秀頼に加勢を求められても拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった8万石におよぶ蔵米の接収を黙認するに留まった。これを知った幕府は正則の幕府軍への参陣も許さず、江戸留守居役を命じられた。豊臣氏の滅亡を機に、羽柴姓をも捨てた正則は、ひたすら幕府への恭順を余儀なくされるのであった。
家康が重病で死の床に就くと、正則は駿府を訪れて見舞ったが、家康は「一度安芸に帰られるがよい。将軍家(徳川秀忠)に不服があれば、遠慮せず、兵を挙げられよ」と冷たく言い放った。御前を退出した正則は「今日までご奉公に努めて来たにも関わらず、あのような申されようは情けない限りだ」と嘆き、人目も憚らず泣いた。それを聞いた家康は、「その一言を吐き出させるために、あのように言ったのだ」と安心したという。
大御所家康死後まもなくの元和5年(1619)、台風による水害で破壊された広島城を無断で修理したことが『武家諸法度』違反に問われる。正則は二ヶ月も前から届けを出していたが幕府からは正式な許可が出ていなかった。しかも修理したのは雨漏りする部分をやむをえず直しただけだったという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修理した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの、破却が不十分であることを咎められ、安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡高井野藩、越後国魚沼郡、4万5000石に減封されてしまう。
これは過激な武将である正則に対する統制策と言われるが、家康死後の二元政治廃止に伴う本多正純と土井利勝らの幕府内権力争いにまきこまれたとも思われる。しかし最終的に改易を強行したのは第2代将軍・秀忠であり、土井利勝や本多正純ら幕府首脳はむしろ、正則の改易が旧豊臣恩顧の諸大名の反抗に繋がることを恐れ、処分には及び腰であったという。
元和6年(1620)、正則嫡男・福島忠勝が早世したため、正則は2万5000石を幕府に返上した。そして寛永元年(1624)7月13日、高井野で死去する。享年64。
正則死去の際、家臣が正則の遺体を幕府の使者が到着する前に火葬したため(一説では正則が屈辱に耐えかね切腹したのを咎められることを恐れ、これを隠蔽するために急いで火葬にしたとも言われる)、福島家は残りの2万石も没収され、後を継いだ正則の子・正利は3000石の旗本に身分を落とした。
戒名・・・海福寺殿月翁正印大居士
墓所・・・梅洞山岩松院(長野県小布施町)、正覚院(東京都港区三田)、正法山妙心寺搭頭海福院(京都市右京区寺院)、高野山悉地院(和歌山県高野町)、新日山不動院(広島市東区)、二ツ寺菊泉院(愛知県海部郡美和町)
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(安芸広島の太守〜最期)
慶長6年(1601)3月に芸備に入封した正則は早速、領内を巡検するとともに、検地で石高の再算出を行った。家臣への知行割も事実上の給米制とし、検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収して負担を少なくするといった善政を布き、意外にも地方巧者ぶりを発揮している。ただし築城や軍拡などのために領民の負担自体は高くなったのも事実であった。また領内の寺社の保護にも熱心であり、慶長7年(1602)には厳島神社の平家納経を修復させたことが知られている。この治世で、除封直前の石高は51万5800石に達した。
慶長9年(1604)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣家を主筋に立てることも忘れなかった。
慶長16年(1611)3月に家康が秀頼に対し、二条城での会見を迫った時には、いまなお豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得し、秀頼の上洛を実現させた(正則自身は病と称して会見に同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えた)。
この会見直後に清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も慶長17年(1612)に病を理由に隠居を願い出る。しかしそれも許されずに飼い殺しの状態に置かれた正則は、大坂の陣では秀頼に加勢を求められても拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった8万石におよぶ蔵米の接収を黙認するに留まった。これを知った幕府は正則の幕府軍への参陣も許さず、江戸留守居役を命じられた。豊臣氏の滅亡を機に、羽柴姓をも捨てた正則は、ひたすら幕府への恭順を余儀なくされるのであった。
家康が重病で死の床に就くと、正則は駿府を訪れて見舞ったが、家康は「一度安芸に帰られるがよい。将軍家(徳川秀忠)に不服があれば、遠慮せず、兵を挙げられよ」と冷たく言い放った。御前を退出した正則は「今日までご奉公に努めて来たにも関わらず、あのような申されようは情けない限りだ」と嘆き、人目も憚らず泣いた。それを聞いた家康は、「その一言を吐き出させるために、あのように言ったのだ」と安心したという。
大御所家康死後まもなくの元和5年(1619)、台風による水害で破壊された広島城を無断で修理したことが『武家諸法度』違反に問われる。正則は二ヶ月も前から届けを出していたが幕府からは正式な許可が出ていなかった。しかも修理したのは雨漏りする部分をやむをえず直しただけだったという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修理した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの、破却が不十分であることを咎められ、安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡高井野藩、越後国魚沼郡、4万5000石に減封されてしまう。
これは過激な武将である正則に対する統制策と言われるが、家康死後の二元政治廃止に伴う本多正純と土井利勝らの幕府内権力争いにまきこまれたとも思われる。しかし最終的に改易を強行したのは第2代将軍・秀忠であり、土井利勝や本多正純ら幕府首脳はむしろ、正則の改易が旧豊臣恩顧の諸大名の反抗に繋がることを恐れ、処分には及び腰であったという。
元和6年(1620)、正則嫡男・福島忠勝が早世したため、正則は2万5000石を幕府に返上した。そして寛永元年(1624)7月13日、高井野で死去する。享年64。
正則死去の際、家臣が正則の遺体を幕府の使者が到着する前に火葬したため(一説では正則が屈辱に耐えかね切腹したのを咎められることを恐れ、これを隠蔽するために急いで火葬にしたとも言われる)、福島家は残りの2万石も没収され、後を継いだ正則の子・正利は3000石の旗本に身分を落とした。
戒名・・・海福寺殿月翁正印大居士
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コメントありがとうございます、遅くなってしまってごめんなさい。
日本史お好きなんですね!私はてんでダメで…
憧れちゃいます!
沙希さん、すっごくかわいいですね!きゃー
萌え萌えです(…ごめんなさい)