2008/9/13リニューアルしました^^
2008.08.08 Fri
武田信玄 〜戦国最強を謳われた甲斐の闘将〜
(上野侵攻〜最期)
川中島の戦いの後、信玄は侵攻の矛先を上野に向けたが、上杉旧臣である長野業正が善戦した為、捗々しい結果は得られなかった。しかし、業正が永禄4年(1561)に死去すると、武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻め、永禄9年9月には箕輪城を落とし、上野西部を制圧することに成功した。
永禄3年(1560)5月、武田氏の盟友であった今川義元が、尾張の織田信長によって桶狭間の戦いで討たれたことにより、今川家が衰退の兆しを見せ始める。このため、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻しようと計画するが、義元の娘婿である嫡男・武田義信とその傳役・飯富虎昌が激しく反対する。信玄は永禄8年(1565)に飯富虎昌を切腹させ、義信も廃嫡の上、幽閉した。そして永禄10年(1567)10月、義信は死去する(自刃させられたとも病死・暗殺など諸説あり)。
永禄11年(1568)12月、三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始する。今川軍も抵抗したが、松野山で荻清誉を、薩垂山で今川氏真を破り駿府館へ入った。しかし、今川氏と縁戚関係にあった北条氏康が、今川氏の援軍に駆けつけ、さらに駿河征服を企む家康も氏康と同盟を結んで信玄と敵対したため、北条・徳川連合軍と戦う不利を悟り、永禄12年、横山城に穴山信君(梅雪)を抑えに残し、4月に武田軍本隊はひとまず甲斐に引き上げた。
同年9月、信玄は2万の大軍を率いて、北条を討つため上野・武蔵国・相模国に侵攻する。10月1日には小田原城を包囲するが、その4日後の10月5日には早くも包囲を解いた。北条は北条氏照・北条氏邦らを武田軍の甲斐への退却路に布陣させ、小田原からは北条氏政らが出陣し挟撃する構えを取ったが、10月8日、三増峠において武田軍と北条氏照・氏邦軍が激突、武田軍が大勝した(三増峠の戦い)。こうして北条氏康を抑えた上で、元亀元年(1570)7月、再び駿河に侵攻し、完全に平定した。
永禄11年(1568)9月、足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄に信長討伐の御内書を発送する。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、遠江国・三河国に侵攻する。信玄は同年五月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたうえで、甲斐に帰還した。
同年10月3日、北条氏康が小田原で死去。後を継いだ嫡男・氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を結ぶに至った。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高は約120万石に達した。
永禄8年(1565)、信玄と信長は東美濃の国人領主遠山氏の息女を信長が養女とし武田勝頼に嫁がせることで同盟を結んだ。その養女は武田信勝(信玄・嫡孫)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男・織田信忠と信玄の娘・松姫の婚約が成立しており、徳川氏とは軍事的衝突を行いながらも織田氏と武田氏は引き続き同盟関係にあった。
元亀3年(1572)10月3日、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて信長との同盟を事実上破棄して、上洛するために躑躅ヶ崎館を進発した(信玄ははじめ上洛を開始する日時を10月1日としていたが、それを3日まで先延ばしたのは、信玄の病が一時的に悪化したためと言われている)。約3万の全軍のうち、3000を秋山信友に預けて信長の領土・東美濃に、山県昌景に5000を預けて家康の領土・三河に、そして自らは本隊として馬場信春らと共に2万を率いて青崩峠より遠江に侵攻した(これには北条氏の援軍2000も加わり、総勢は2万2000ともされる)。
上洛のときにおいて、「遠州・三河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんとの、信玄の望み是なり」と述べたという(『甲陽軍鑑』)。
信玄率いる本隊は10月13日、只来城、天方城、一宮城、飯田城、各和城、向笠城などの徳川諸城をわずか1日で落とした。山県昌景軍は柿本城、井平城を落として信玄本隊と合流し、秋山信友軍は11月までに東美濃の要衝である岩村城を落とした。
これに対して、織田信長は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に3000の援軍を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦ったが、兵力の差と信玄の巧みな戦術に敗れた(一言坂の戦い)。12月19日には、遠江の要衝である二俣城を陥落させた。
これに対して、家康ははじめ浜松に籠城の構えを見せたが、武田軍の動きを見て信長の援軍も含めほぼ全軍にあたる1万1000を率いて出陣、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と一大決戦を挑む。しかし兵力の差、並びに信玄の戦術の前に大敗を喫し、徳川軍は多くの将兵を失い敗走した(三方ヶ原の戦い)。このとき、家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞しながら命からがら浜松城に逃げ帰ったという。
しかし、織田主力軍と対峙していた盟友浅井長政の援軍として北近江に参陣していた越前朝倉義景の撤退を知る。信玄は怒り、義景に文書を送りつけた(『伊能文書』)。しかし義景は、その後再三の出陣要請にも結局動こうとしなかった。そのため、信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年したが、元亀4年(1573)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。
しかし野田城を落とした直後から、信玄の持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。信玄は長篠城において療養していたが、病状は一向に良くならず、4月初旬には遂に甲斐に撤退することを決意する。
元亀4年(1573)4月12日、甲斐に引き返す途上の信濃国駒場(現・長野県下伊那郡阿智村)で病死した。享年53。
死因に関しては、持病の労咳(肺結核)、肺炎、『甲陽軍鑑』では、胃がん若しくは食道癌による病死説とする説が有力である。武田軍が三河国野田城を攻囲中、信玄が城中から聞こえる笛の音に惹かれてやってきたところを狙撃され負傷したのだというは俗説である。
信玄辞世の句は、
大ていは 地に任せて 肌骨好し
紅粉を塗らず 自ら風流
戒名・・・法性院大僧正機山信玄公大居士神儀、恵林寺殿機山玄公大居士
墓所・・・恵林寺(山梨県塩山市)、龍雲寺(長野県佐久市)、圓光院武田信玄公廟所ほか
信玄の遺言については、勝頼に対して「自分が死した後は上杉謙信を頼れ。また三年間は喪を秘せ」と言い残したとも、重臣の山県昌景に対して、「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したともいうが、信頼の置ける同時代史料が存在せず、後世の史書や物語などで断片的に伝えられているだけなので、本当に信玄の遺言なのかの裏付けはとれていない。
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(上野侵攻〜最期)
川中島の戦いの後、信玄は侵攻の矛先を上野に向けたが、上杉旧臣である長野業正が善戦した為、捗々しい結果は得られなかった。しかし、業正が永禄4年(1561)に死去すると、武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻め、永禄9年9月には箕輪城を落とし、上野西部を制圧することに成功した。
永禄3年(1560)5月、武田氏の盟友であった今川義元が、尾張の織田信長によって桶狭間の戦いで討たれたことにより、今川家が衰退の兆しを見せ始める。このため、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻しようと計画するが、義元の娘婿である嫡男・武田義信とその傳役・飯富虎昌が激しく反対する。信玄は永禄8年(1565)に飯富虎昌を切腹させ、義信も廃嫡の上、幽閉した。そして永禄10年(1567)10月、義信は死去する(自刃させられたとも病死・暗殺など諸説あり)。
永禄11年(1568)12月、三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始する。今川軍も抵抗したが、松野山で荻清誉を、薩垂山で今川氏真を破り駿府館へ入った。しかし、今川氏と縁戚関係にあった北条氏康が、今川氏の援軍に駆けつけ、さらに駿河征服を企む家康も氏康と同盟を結んで信玄と敵対したため、北条・徳川連合軍と戦う不利を悟り、永禄12年、横山城に穴山信君(梅雪)を抑えに残し、4月に武田軍本隊はひとまず甲斐に引き上げた。
同年9月、信玄は2万の大軍を率いて、北条を討つため上野・武蔵国・相模国に侵攻する。10月1日には小田原城を包囲するが、その4日後の10月5日には早くも包囲を解いた。北条は北条氏照・北条氏邦らを武田軍の甲斐への退却路に布陣させ、小田原からは北条氏政らが出陣し挟撃する構えを取ったが、10月8日、三増峠において武田軍と北条氏照・氏邦軍が激突、武田軍が大勝した(三増峠の戦い)。こうして北条氏康を抑えた上で、元亀元年(1570)7月、再び駿河に侵攻し、完全に平定した。
永禄11年(1568)9月、足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄に信長討伐の御内書を発送する。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、遠江国・三河国に侵攻する。信玄は同年五月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたうえで、甲斐に帰還した。
同年10月3日、北条氏康が小田原で死去。後を継いだ嫡男・氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を結ぶに至った。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高は約120万石に達した。
永禄8年(1565)、信玄と信長は東美濃の国人領主遠山氏の息女を信長が養女とし武田勝頼に嫁がせることで同盟を結んだ。その養女は武田信勝(信玄・嫡孫)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男・織田信忠と信玄の娘・松姫の婚約が成立しており、徳川氏とは軍事的衝突を行いながらも織田氏と武田氏は引き続き同盟関係にあった。
元亀3年(1572)10月3日、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて信長との同盟を事実上破棄して、上洛するために躑躅ヶ崎館を進発した(信玄ははじめ上洛を開始する日時を10月1日としていたが、それを3日まで先延ばしたのは、信玄の病が一時的に悪化したためと言われている)。約3万の全軍のうち、3000を秋山信友に預けて信長の領土・東美濃に、山県昌景に5000を預けて家康の領土・三河に、そして自らは本隊として馬場信春らと共に2万を率いて青崩峠より遠江に侵攻した(これには北条氏の援軍2000も加わり、総勢は2万2000ともされる)。
上洛のときにおいて、「遠州・三河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんとの、信玄の望み是なり」と述べたという(『甲陽軍鑑』)。
信玄率いる本隊は10月13日、只来城、天方城、一宮城、飯田城、各和城、向笠城などの徳川諸城をわずか1日で落とした。山県昌景軍は柿本城、井平城を落として信玄本隊と合流し、秋山信友軍は11月までに東美濃の要衝である岩村城を落とした。
これに対して、織田信長は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に3000の援軍を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦ったが、兵力の差と信玄の巧みな戦術に敗れた(一言坂の戦い)。12月19日には、遠江の要衝である二俣城を陥落させた。
これに対して、家康ははじめ浜松に籠城の構えを見せたが、武田軍の動きを見て信長の援軍も含めほぼ全軍にあたる1万1000を率いて出陣、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と一大決戦を挑む。しかし兵力の差、並びに信玄の戦術の前に大敗を喫し、徳川軍は多くの将兵を失い敗走した(三方ヶ原の戦い)。このとき、家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞しながら命からがら浜松城に逃げ帰ったという。
しかし、織田主力軍と対峙していた盟友浅井長政の援軍として北近江に参陣していた越前朝倉義景の撤退を知る。信玄は怒り、義景に文書を送りつけた(『伊能文書』)。しかし義景は、その後再三の出陣要請にも結局動こうとしなかった。そのため、信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年したが、元亀4年(1573)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。
しかし野田城を落とした直後から、信玄の持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。信玄は長篠城において療養していたが、病状は一向に良くならず、4月初旬には遂に甲斐に撤退することを決意する。
元亀4年(1573)4月12日、甲斐に引き返す途上の信濃国駒場(現・長野県下伊那郡阿智村)で病死した。享年53。
死因に関しては、持病の労咳(肺結核)、肺炎、『甲陽軍鑑』では、胃がん若しくは食道癌による病死説とする説が有力である。武田軍が三河国野田城を攻囲中、信玄が城中から聞こえる笛の音に惹かれてやってきたところを狙撃され負傷したのだというは俗説である。
信玄辞世の句は、
大ていは 地に任せて 肌骨好し
紅粉を塗らず 自ら風流
戒名・・・法性院大僧正機山信玄公大居士神儀、恵林寺殿機山玄公大居士
墓所・・・恵林寺(山梨県塩山市)、龍雲寺(長野県佐久市)、圓光院武田信玄公廟所ほか
信玄の遺言については、勝頼に対して「自分が死した後は上杉謙信を頼れ。また三年間は喪を秘せ」と言い残したとも、重臣の山県昌景に対して、「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したともいうが、信頼の置ける同時代史料が存在せず、後世の史書や物語などで断片的に伝えられているだけなので、本当に信玄の遺言なのかの裏付けはとれていない。
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女性だと byノフロウ
美人薄命みたいなこと 英雄にもあったのかと思うほど !?
謙信を頼れというのも ホントにすごい言葉
お互いを認め合っていたんでしょうね
53歳 駆け抜けた人生 でも きっと
頑張った自分を 誇れる人生だったんだろうなぁ
この時代は 本当に たくさんの武将が ですね
今の日本は 戦争の直接的な危機感もなく
平和でいられること とても大切なことだけど
生命あることの意味 この時代の方が
覚悟があったように感じてしまう
みんな 毎日を精一杯に生きていたのでしょうね ^^
謙信を頼れというのも ホントにすごい言葉
お互いを認め合っていたんでしょうね
53歳 駆け抜けた人生 でも きっと
頑張った自分を 誇れる人生だったんだろうなぁ
この時代は 本当に たくさんの武将が ですね
今の日本は 戦争の直接的な危機感もなく
平和でいられること とても大切なことだけど
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覚悟があったように感じてしまう
みんな 毎日を精一杯に生きていたのでしょうね ^^
No title by沙希
ひろさん
そうですね。だから歴史家と歴史学という学問が成り立ちます。
ノフロウさん
いつもありがとうございます。
武田信玄というと出家したあの有名な画像や仁王像のイメージでどうしても老練な感じをうけるんですが、53歳だったんですよ。明智光秀も53歳、我らがお館様信長公は49歳・・・人間50年とはよく言ったものです。
そうですね。だから歴史家と歴史学という学問が成り立ちます。
ノフロウさん
いつもありがとうございます。
武田信玄というと出家したあの有名な画像や仁王像のイメージでどうしても老練な感じをうけるんですが、53歳だったんですよ。明智光秀も53歳、我らがお館様信長公は49歳・・・人間50年とはよく言ったものです。
No title
歴史書は誰かの意思が書かれているので、結果から、事実をしるのでは?
武田軍はなぜ?9月から4月までしか、戦わないのか?織田軍と戦うのに、信濃から、美濃に向かわなかったか?朝倉軍は12月には、地元に帰らなければならないか?これらの事は歴史書にはかいてないですよ。
武田軍はなぜ?9月から4月までしか、戦わないのか?織田軍と戦うのに、信濃から、美濃に向かわなかったか?朝倉軍は12月には、地元に帰らなければならないか?これらの事は歴史書にはかいてないですよ。
女性だと
美人薄命みたいなこと 英雄にもあったのかと思うほど !?
謙信を頼れというのも ホントにすごい言葉
お互いを認め合っていたんでしょうね
53歳 駆け抜けた人生 でも きっと
頑張った自分を 誇れる人生だったんだろうなぁ
この時代は 本当に たくさんの武将が ですね
今の日本は 戦争の直接的な危機感もなく
平和でいられること とても大切なことだけど
生命あることの意味 この時代の方が
覚悟があったように感じてしまう
みんな 毎日を精一杯に生きていたのでしょうね ^^
謙信を頼れというのも ホントにすごい言葉
お互いを認め合っていたんでしょうね
53歳 駆け抜けた人生 でも きっと
頑張った自分を 誇れる人生だったんだろうなぁ
この時代は 本当に たくさんの武将が ですね
今の日本は 戦争の直接的な危機感もなく
平和でいられること とても大切なことだけど
生命あることの意味 この時代の方が
覚悟があったように感じてしまう
みんな 毎日を精一杯に生きていたのでしょうね ^^
No title
ひろさん
そうですね。だから歴史家と歴史学という学問が成り立ちます。
ノフロウさん
いつもありがとうございます。
武田信玄というと出家したあの有名な画像や仁王像のイメージでどうしても老練な感じをうけるんですが、53歳だったんですよ。明智光秀も53歳、我らがお館様信長公は49歳・・・人間50年とはよく言ったものです。
そうですね。だから歴史家と歴史学という学問が成り立ちます。
ノフロウさん
いつもありがとうございます。
武田信玄というと出家したあの有名な画像や仁王像のイメージでどうしても老練な感じをうけるんですが、53歳だったんですよ。明智光秀も53歳、我らがお館様信長公は49歳・・・人間50年とはよく言ったものです。
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